1899年、ジョージ・カーゾン(en、就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日)が第11代副王として就任した。カーゾンは外交面では、1903年にチベットに初めて外交使節を派遣(en:British expedition to Tibet)した。また、アフガニスタンとの国境線で常に不安定であった北西部において、「北西辺境州」を設置することで、治安の回復を図った。内政面においては、肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立[12]を実施した。
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しかし、カーゾンの統治政策の本性は、1904年のインド大学法と1905年のベンガル分割令によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された[13]。ベンガル分割令において、ベンガルを二分し、ベンガル東部とアッサム地方でもって東ベンガル州を新設し、ベンガル西部とオリッサ州、ビハール州とを合わせて西ベンガル州を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった[12]。ベンガル分割令は、1911年に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を持った州とする、いわば、ベンガル人に対しての妥協がなされる形となった[14]。
1905年、カーゾンが辞任し、第12代副王としてミントー卿(en、就任期間:1905年11月18日-1910年11月23日)が就任した。ミントーは各地で起こっていた反英運動を徹底的に弾圧した。1906年、ジョン・モーリインド担当国務大臣が尊敬する、国民会議「穏健派」のゴーパル・クリシュナ・ゴーカレーが議長に就任するが、ティラクを中心とする「急進派」が過激活動を展開した。ティラクは1907年逮捕され、6年の懲役を受け、マンダレーへ流されることで、国民会議は穏健派が支配することとなったが、国民会議は分裂により、急速に求心力を失う結果となった[15]。
また、ミントーは、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々[16]を後押しする形で、1906年、全インド・ムスリム連盟が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。
ハーディング総督からチェムズファド総督の時代 1910-1921
1911年のデリー・ダルバールに参列したマリク・ウマル・ハイヤット・ハーン。パンジャーブ地方の有力者である。チャールズ・ハーディング(en、就任期間:1910年11月23日-1916年4月4日)が第13代副王として、就任すると、その翌年、ジョージ5世とメアリー王妃がインドを訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。イギリス国王がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、カルカッタからデリーへの遷都が宣言された。
ハーディング総督時代のインド政治を左右したのは当時の国際情勢であった。1911年から始まった伊土戦争とそれに続く2度のバルカン戦争により、オスマン帝国の宗教的権威が大きく揺らぐこととなった。ムスリム大衆の間には親トルコ的感情が生まれることとなり、後に、オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れると、ヒラーファト運動へと発展することとなった。
1914年、第一次世界大戦が開戦すると、6月に釈放されていたティラクをはじめ、多くの民族主義指導者はイギリスへの支持を打ち出した。ティラクをはじめとする彼らの期待は、インドのイギリスによる支持は、終戦後、結果として、インドへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた[17]。100万人以上のインド人が徴兵に応じ、フランス、中東で戦死した[18]。
大戦期、インド経済は極度のインフレーションと重税に直面することとなり、民族主義的な政治運動が展開される環境が整った。その結果、「自治連盟(Home Rule Leagues)[17][18]」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開[17]が見られるようになった。前者の活動を指導したのは、1つは、ティラクを中心とする勢力であり、もう1つは、イギリス人女性アニー・ベサントであった。後者の革命的活動はベンガル、マハーラーシュトラから、全北インドに広がりを見せた[17]。
インドにおける民族意識の高揚、かつての分裂が無意味であることを自覚したティラクは国民会議の再統合を促した。その結果、1916年のラクナウ大会では、国民会議の再統合の達成と全インド・ムスリム連盟との対立関係は解消された。国民会議と連盟の間では、ラクナウ協定(en)が締結され、両者の協力関係が確認された。しかし、ラクナウ協定の意義は、分離選挙制度に基づく政治改革であったことから、インド政治に宗派主義が復活する可能性を残した[17
アムリトサルの虐殺イギリスはヒンドゥー、ムスリムの二大勢力が大同団結した自体を重く見て、1917年8月20日、エドウィン・サミュエル・モンタギュ(en)・インド担当国務大臣により、モンダギュ宣言が発表された。イギリスは植民地インドの即時独立を容認することはなく、全人的に自治権を拡大させる政策を採った。モンタギュとチェムズファド第14代副王(en、就任期間:1916年4月4日-1921年4月2日により、モンタギュ-チェムズファド改革(en)と呼ばれる改革を推進することで、インドの民族主義者の懐柔と同時に、1919年には、ローラット法が可決され反英主義者の弾圧も行う姿勢を見せるようになった。ローラット法が適用されて展開された悲劇がアムリトサルの虐殺である。
しかし、この時代、インド独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたティラクの死亡、南アフリカからのモハンダス・カラムチャンド・ガンディーの帰国である。
リーディング総督時代 1921-1926
グジャラート州・ケーダー県で活動していた際のガンディーガンディーが南アフリカから帰国したのは、1915年のことである。帰国した後のガンディーは、インド各地を回り、インドの現状の把握を理解した。インドにおけるガンディーの闘争の歴史は、1917年のチャンパーラン・サティヤーグラハとその翌年のアフマダーバードの工場ストライキ(en)で始まる。チャンパーランでの闘争において、ガンディーの市民的不服従運動は勝利を収め、アフマダーバードの工場ストライキにおいて、インド人の政治的覚醒を促すことに成功する。
アムリトサル事件以降、ガンディーは国民会議派の支持を集めることに成功した。糸をつむぐ姿のガンディーとはもっとも相容れない資本家層の支持も取り組むことに成功したことで、インド独立闘争は、第三段階へと移行することとなった。とりわけ、ガンディーを支持したのは、人口が稠密であるビハール州と連合州であった[20]。
一方で、ガンディーを支持しなかった層が存在したことも確かである。1つが各地の藩王国や人口密度が極めて低い山間部である。これらの地域にはガンディーの主張が正しく伝わらなかった[20]。その理由は国民会議の運動員の中心は都市部の学生であったこと、そのため、前述の地域に赴くことができなかったこと、赴くことができなかったのは、鉄道等のインフラストラクチャーが整備されていない物理的側面と各地の藩王がナショナリズムを排斥していたからに他ならない[20]。また、ガンディーの主張にインドの公用語をヒンディー語にすべきであるという点があったことから南インドでの活動の拡大にも限界があった[20]。
もう1つの層は、ムスリム層である。ムスリム連盟を指導することとなるムハンマド・アリー・ジンナーは、合法的な独立闘争を展開することを目指したゴーカレーに師事していたこともあって、国民会議を脱退し、ムスリム連盟に参加する。1920年、セーヴル条約により、オスマン帝国の瓦解が明らかになるにつれ、ヒラーファト運動は停滞するようになった。さらに、1924年、ケマル・アタテュルクにより、トルコ共和国の設立が宣言されると、ヒラーファト運動は破綻した[20]。ラクナウ協定から1922年までの6年間はヒンドゥーとムスリムの間は最後の蜜月の機関であったが、それぞれの大衆動員は、別個でされていたこともあり、徐々に、宗派主義がインド政界に台頭するようになった[20]。
1921年の年末までに、ガンディーを除くほとんどの民族主義指導者が逮捕された。その数は、3000人に達した[21]。だが、12月の国民会議アフマダーバード大会では、非暴力・非協力の運動の方針が再確認され、運動は継続された。しかし、次の年になるとガンディーが指導してきた運動は徐々に暴力性を帯びるようになった。ガンディーは、民族運動の停止を決定し、3月10日は、イギリス政府により、ガンディーは逮捕された。こうして、ヒンドゥー、ムスリム両方の反英闘争は一旦、終止符を打つこととなった。
ベンガル出身の指導者C.R.ダース。1922年、国民会議は分裂の危機に直面していた。立法参事会に積極的に進出して、さらには立法参事会を政治闘争の部隊として利用すべきであると考えていたジャワハルラール・ネルーやC.R.ダース(en)のグループと議会政治は大衆の間での活動を軽視させ民族主義の熱を冷ますと考えた「固守派」と呼ばれるグループの対立であった[22]。12月、ネルーとC.R.ダース(en)は国民会議の一派閥として、スワラージ党(en)を結党した[22]。
1924年に釈放されたガンディーも両派閥の仲裁に入ったが、不調に終わる。しかし、1907年の分裂のようなことを回避することは両派閥とも共有されていた。その後のネルーのスワラージ党は、1923年の選挙で101議席中42議席を獲得し、1925年3月には、中央立法会議の議長として、ヴィッタルバーイー・パーテル(en)を送り込むことに成功した。
おおよそこの時代は、インド独立運動において、高揚とその後の停滞した時代という向きが見られる。